生まれた時から「社会」の一員なのに、なぜ「社会人」になるんだろう
「社会人」という言葉を聞くと、生まれた時から「社会の一員」なのに、改めて「社会人」になるって変じゃない?と違和感がありました。
なぜ、学生が終わり働き始めるタイミングで「社会人」と言われるようになるのか。調べて、自分なりに考えてみました。
日本語に「社会」という言葉はなかった
「社会」という語は、伝統的な日本語のうちになかった。society[英]、Gesellschaft[独] 、societe[仏]などの翻訳語として、明治期に創出された。
と、あるように「社会」という言葉は、翻訳語だったんですね。
伝統的な日本語のなかで「社会」の語にいちばん近く、一般的であったのは、「世間」であった。「世間の荒波」=「社会の荒波」というように、今日でもしばしば「社会」の同義語として用いられる。この「世間」とは、柳田国男らの民俗学があきらかにしているように、元来、共同体の外部を指す語であった。
その代わりにあったのが「世間」という言葉です。
同意語として用いられることもありますが、ここに大きな違いがあります。
日本: 「社会」=「世間」(共同体の外部)
英・仏・米: 「社会」=「社交界、協会、会社」(共同体の内部)
※内部といっても、広いコミュニティに属しているイメージ
「世間」とは、共同体の外部。
つまり、ある集団の外側を指す言葉として使われていました。
この2つは、まったく逆の意味です。
なぜ、日本では英・仏・米のように(共同体の内部)を表す言葉が生まれなかったのでしょうか。
「村」と「世間」
これは、日本が村社会だったことが関係していると思います。
今考えると驚きですが、昔の日本人は、生涯を村から出ず終える人も多く、極めて狭い活動範囲で生活していました。
したがって、自分たちが生活する範囲を「村」(共同体)。
その外側を「世間」(共同体の外側)と呼んでいたわけです。
「社会人」とは
こう考えると、「社会人」という言葉も納得できます。
今まで生活していたコミュニティ(家庭内、学校内など)は一種の「村」なんです。
だから、その「家庭・学校」などの狭いコミュニティから、外側(=世間)に出ることで始めて「社会人」と呼ばれるのだと思いました。