taketommy's blog

誰かの役に立つように、自分が振り返れるように、コソコソまとめています。

情報産業の次は生命産業?「情報の文明学」を読んで感じたこと

はじめに

ほぼ日の糸井さんが、社員への課題図書としている「情報の文明学」という本を読んだ。この本は、梅棹忠夫さんが1962年に発表した論文「情報産業論」などをまとめたもので、インターネット社会を予測していたかのような内容から”知の大預言書"とも呼ばれているらしい。気になり読んでみたところ、メディアの未来を考えるいろいろなヒントをくれる名著だったので、自分の整理のために内容をまとめてみる。

情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

「情報産業論」をざっくりと

「情報産業論」は、とてもユニークな視点で情報社会の訪れを予測したものだ。「情報産業論」では、人類の産業の歴史を「農業の時代」「工業の時代」「情報産業の時代」と三段階に分けている。梅棹忠夫さんは、この流れを"人間の体が受精卵から成体になるまで"と関連付けて説明している。

人間の元となる受精卵は、細胞分裂を繰り返しながら「外胚葉」「中胚葉」「内胚葉」という三つの胚葉(細胞の固まり)に分かれる。これらが更なる分裂を繰り返し、人間の器官になってゆくのだ。それぞれ内胚葉は胃や腸などの消化器官に、中胚葉は血液や筋肉などに、外胚葉は皮膚や脳神経系になる。梅棹忠夫さんは、この成り立ちが産業の歴史と関連しているというのだ。

f:id:sora0310:20150222165542p:plain

農業時代→工業時代→情報産業の流れ

まず一つ目の「農業の時代」に生産していたものは、ずばり食料である。農業時代は、人間が食べること(腹の足しになるもの)に追われていた時代だった。梅棹忠夫さんは、農業の時代を言い換えると、消化器官系を満たすための「内胚葉産業の時代」であると説明した。

二つ目の「工業の時代」に生産していたものは、生活物資とエネルギーである。工業の時代は、いわば人間の手足を使った労働を機械が効率化した(筋肉・労働の足しになる)時代だった。梅棹忠夫さんは、「工業の時代」を中胚葉産業の時代であると説明した。

では、最後に残った「外胚葉」は、何を表すのだろうか。梅棹忠夫さんは、外胚葉が生み出す脳神経系統や感覚を充足させるものこそが「情報」(脳や感覚の足しになるもの)であり、第三の時代として「情報産業の時代」が訪れると論じた。

f:id:sora0310:20150222171523p:plain

いま「情報産業の時代」と聞くと当たり前だと思うかもしれないが、「情報産業論」が発表されたのは1962年だ。これは情報革命の訪れを論じて、世界的なベストセラーとなった「第三の波」(1980年)が発表されるよりも、20年近く前に日本で情報革命が予測されていたことになる。これが、「情報産業論」が"知の大預言書"と言われる理由のひとつである。

「情報産業の時代」による変化

梅棹忠夫さんは、工業生産物そのものが中心となる「工業の時代」から、商品に付加された情報が中心となる「情報の時代」に少しづつ移行していると説明した。

その一例として自動車業界をあげており、消費者が「自動車の性能に対してお金をはらうよりも、自動車のもっているシンボル性に対して金をはらうようになっています。」とし、性能の良さよりもその自動車を「かっこいい」と思えるかに大きな価値が出てきたと論じた。

また、こうした消費欲求の変化について、「日本製造業においては、デザインなどというものは、ほとんどかえりみられなかった。品質がよければ見かけはどうでもいい、というかんがえであった。ところが現在では、その品質ということばの内容が変化しつつある。その製品に付加された情報的価値こそが品質となりつつある」と説明した。

どうだろうか、これらはまさにインターネット社会における消費欲求の変化として、広告業界などで叫ばれていることだ。梅棹忠夫さんは、こうした考えの元となる論文をコンピューターの普及前に予見しているのだから、衝撃的である。

「情報」について

梅棹忠夫さんは、「情報の時代」の中心となる情報そのものについても、ユニークな視点を持っていた。「情報を常に役立つものだと考えるのは間違いである」とし、無益な情報をコンニャクに例えて「情報というものはコンニャクのようなもので、情報活動というものはたべる行為に似ている」と説明している。

コンニャクは、サトイモ科の植物だ。その主成分はマンナンと呼ばれる物質であるが、これはほとんど栄養素がない。つまり、コンニャクはいくら食べても人間の体に役立たないのである。しかし、それでもコンニャクには味覚があり、食べればそれなりに満腹感が出てくる。

梅棹忠夫さんは、栄養素のないコンニャクを例にして、役に立たない情報をコンニャク情報と呼んだ。コンニャクを食べた際に人間の腸が動くように、どんなに役立たない情報でも、感覚器官や脳神経系を興奮させており、それだけで存在する意味があるというのだ。こうした無意味な情報を無視しない視点は、エンタメ過剰になった現代でも、おおきな意味があると思う。

新しい産業は、古い産業を発展させる

ここまで「情報産業論」の概要をまとめたが、ここからは梅棹忠夫さんが予見した"情報革命後の発展"についてまとめよう。梅棹忠夫さんは、新しい産業の発展によって、古い産業はますます発展すると論じた。

例えば、工業時代が発展したことで、農機具や肥料が大量生産可能になり、農業は大きく発展した。おなじように、工業は情報革命により大きく発展し、さらには第一世代となる農業もその可能性を広げている。新しい産業は古い産業を滅ぼすのではなく、あくまで並存していくのである。

こう考えると、今流行りのIoT(Internet of things)などは、まだまだ情報革命の範疇にあると考えられるだろう。IoTは、簡単にいえばすべてのモノをインターネットに繋げる技術のことだ。これはまさに「情報の時代」が古い産業を発展させていると考えられると思う。

「情報の時代」の次はなにか

ここからは「情報産業論」の文脈に沿って、「情報の時代」の次について考えたいと思う。ここまでの流れをまとめると、人間の産業の歴史は、「農業の時代」「工業の時代」「情報産業の時代」と三段階に分けることができる。

これらは人間が成体になるまでに出来る「外胚葉」「中胚葉」「内胚葉」という三つの胚葉に対応しており、言い換えれば「腹の足しになる時代」「筋肉・労働の足しになる時代」「脳や感覚の足しになる時代」と、人間の諸機能を段階的に満たす流れで発展してきた。

では、その最終形である「情報産業の時代」の次にくるのは何だろうか。僕はこれを人間の存在そのものを満たす「生命産業の時代」であると妄想してみた。ここから先は勝手な思考実験であるが、次の時代を考えることは、いまの時代を生きる上でも面白いことだと思う。

「生命産業の時代」を妄想する

「生命産業の時代」は、梅棹忠夫さん風にいえば、人間の存在そのものを満たす「三胚葉の時代」と言える。三胚葉というのは、これまで説明してきた「外胚葉」「中胚葉」「内胚葉」をまとめた言葉だ。「生命産業の時代」では、人間の活動そのものが代替される時代になるだろう。

一番単純な例でいえば、ロボットによる人間の代替がある。ソフトバンクが2月27日にパーソナルロボットである「pepper」を発売するなど、既にロボット分野は発展を見せている。そのなかでも、人間の代替というアイデアを受けたのは、介護用として2011年から発売されている「うなずきかぼちゃん」だった。


Smile Supplement Robot"KABO-chan"Short(画像 ...

ロボットによる人間の代替を考える際に考えられるのは、人が何らかのストレスを感じる作業から代替が始まるということだ。介護自体をストレスフルだと言うのは、誤解を招きそうだが、少なくとも「うなずきかぼちゃん」については、介護施設などで長時間ひとりひとりと会話できない状況に置いて、人間の代替として成立しているのではだろうか。

また、前述したように新しい産業は古い産業を発展させるだろう。具体的には、「情報の時代」「工業の時代」「農業の時代」すべてをロボット(人間の代替であればロボットじゃなくても良い)が発展させることになる。ここまで来ると完全にSF世界になってしまうが、人間の代替となるようなものが生まれれば、各時代の物事をより発展させる可能性は十分にあると思う。

まとめ

「情報の文明学」の書評に始まり、最後には勝手な妄想論になってしまった。書評として内容を短くまとめる予定が、本の内容の濃さからずいぶんと長くなったが、まとめることで理解が深まった気がする。僕が書いた妄想論がさておき、「情報の文明学」が示唆にとんだ名著であるのは確かなので、興味を持った人はぜひ読んでみてはいかがだろうか。